エッセイ
Vol. 01

歌舞伎、裏側からみれば(01)

esseytop

23/01/03 UP

【裏方ドレスコード】


 雪駄なるものを女の自分が履くことになるなんて、おもいもよらなかった。
 東京・東銀座には一年中、歌舞伎を上演している歌舞伎座という劇場がある。瓦屋根が威厳たっぷりにのっかったお城のような建物。近代的なビルが並ぶなか、そこだけぽっかり江戸時代のようだ。
 歌舞伎という芸能は役者がいるだけでは成立しない。絢爛豪華な舞台セットが巨大な空間を埋め尽くしているからこそ、芝居の世界が立ち上がり観客はするりと引き込まれていく。その舞台裏には大工のように木で骨組を作る人、絵を描く人、芝居に合わせて動かす人が集まった「大道具」という職業がある。歌舞伎座では歌舞伎座舞台という会社が座付きとして請け負っている。
 あるときその大道具会社からホームページを作ってほしいと依頼があった。あこがれの歌舞伎座大道具。これ幸いと、そのまま広報の仕事を続けさせてもらえるように頼み込み、そこから私の半分裏方という生活がはじまった。
 これまでソトの人だった私が、どうしたらいきなり裏方になれるのか。ここで雪駄である。これを履いていれば、だれでも裏方の顔をして歌舞伎座のバックヤードを歩けるのだ。雪駄といっても立派なやつじゃない。京都の若旦那とか、それこそ歌舞伎俳優が紋付袴で履いているような高級おしゃれ雪駄とは違う。素材はバリバリのビニールで、ぼんやりした玉子色。その台に化繊の鼻緒がすげてある。裏はタイヤのゴムのようで、おろしたてのときには強烈なにおいがしていた。大道具さんはみんな同じものを履くので、台の面いっぱいに「ヒロエ」「オオクボ」といった具合に、太い油性ペンで名前を書いている。新入生の私にはそれがかっこ良く見えた。さっそく真似して「たむら」と書き入れた。

 歌舞伎座にはナカの人しか知らない決まり事がたくさんある。舞台の上や楽屋は土足厳禁。だからいちいちスリッパに履き替えなくてはならない。しかし雪駄を履いていれば、どこでもフリーパスとなる。舞台の上はもちろん、楽屋ゾーン、なんと歌舞伎座の外まで歩ける。土足状態のときもあるのに、なぜだか雪駄なら大丈夫という魔法の履物なのだ。
 ちなみに裏方の正式な足袋は、底の布まで真っ黒な通称「うらぐろ」。いくら汚れても気にしなくて済む、がんがん働くための足袋だ。でも私はズルをしてタビックスですませている。黒はそのあたりには売っていないから手に入れるには苦労した。ネットで探しまわり、シャリっとした麻のものを見つけて愛用している。
 雪駄と黒足袋という裏方の象徴アイテムを手に入れた私は無事に裏方になれた。でも、ここは名札を付けない世界。なかなか名前は覚えてもらえない。少し思案をめぐらせて、自分だけのドレスコードをつくることにした。
 歌舞伎座のバックヤードに出入りしはじめて約10年。今も私の名前がわかる人はほとんどいないだろう。だけど「黒いエプロンをした大道具のおねえさん」はみんな知っているはずだ。